• こんなにさみしい歌があるだろうか:テルーの唄

    私はもっとも好きな映画は何かと問われれば『もののけ姫』と答える程度にはジブリの作品が好きです。しかし公開時の(あまり良くない)評判もあって『ゲド戦記』だけは長らく観ずにいました。

    先日、『ゲド戦記』がテレビでやっていたので良い機会だと思って観ました。映画は、確かに荒削りなところもあり、宮崎駿監督のそれまでの完璧な作品群と比べるとやや見劣りする印象もありましたが、公開当時の酷評とも言えるようなマイナスの感情を生むほどのものではなかったのかなという気がしました。むしろそれまでのジブリのキャラクターは人として出来すぎているところがあり、『ゲド戦記』は生の人間が成長していくためにもがく部分を描いた面白い作品ではあったと思います。おかしな表現ですが、仮にジブリのキャラクターがジブリという舞台に乗る俳優だとして、その役どころを演じられるようになる前の、稽古の段階から見ていた、と言うか・・・ともかくその「途上」を描くことに重要性があったのだろうという感触がありました。

    『ゲド戦記』で非常に効果的に用いられているのが、草原でテルーが唄う「テルーの唄」です。

    この曲も公開当時の私は観ていない映画の主題歌という認識しかなく、そこまで特別な印象は持っていませんでした。しかし、最近はじめたばかりのギターでなんとはなしにこの曲を弾いてみたとき、「こんなにさみしい歌があるだろうか」と、強いショックを受けました(歳をとったせいもあるでしょうが、爪弾きながら何度も涙ぐんでしまいました)。

    全編通して素晴らしい曲だと思いますが、中でも3番(劇中では2番)の歌詞は白眉と言えるでしょう。

    人影絶えた野の道を

    私とともに歩んでる

    あなたもきっと 寂しかろう

    虫の囁く草原を

    ともに道行く人だけど

    絶えて物言うこともなく

    誰かといるときに感じるどうしようもない寂しさを、こんなにも少ない言葉で、そしてこれほど簡素なメロディで歌い切れるものか、と思いました。調べてみると萩原朔太郎の「こころ」という詩を着想にして宮崎吾朗監督が作詞したもののようですが、下地にはない良さがある歌詞に仕上がっていると思います。

    一緒に歩く人はいるのに、話しかけることもできず、そんな自分といるあなたも「きっと寂しかろう」と考える――まるで両手を添えなければ壊れてしまうティーカップのように繊細な精神。

    後段、虫の囁きが聴こえるのだから、静かな夜道なのでしょう。微かな声でも相手には届くはずなのに、「絶えて物言うことも」ないのです。「絶えて〜ない」という表現は萩原朔太郎の原詩を受けていて「まったく〜しない」という強い否定の言葉ですので、旅の道連れの慰めさえ得られず、また与えられもしないという孤独を思い、胸が詰まります。

    大人が歌の主人公に対して「あなたが寂しいのは、あなた自身が寂しさを選んでいるからだよ」と本当のことを言うのはたやすいことです。しかしそれがわかっていても本人にはどうすることもできず、ただ心のたとえる先を探す他ない時間が確かにある――その落とし所のなさ、よるべのなさをとてもよく描いた歌詞だと思います。

    最後に萩原朔太郎の「こころ」を引用したいと思います。こちらも行方のないさみしさを詠ったよい詩だと思います。

    萩原朔太郎 『純情小夜曲』より こころ

    こころをばなににたとへん
    こころはあぢさゐの花
    ももいろに咲く日はあれど
    うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

    こころはまた夕闇の園生のふきあげ
    音なき音のあゆむひびきに
    こころはひとつによりて悲しめども
    かなしめどもあるかひなしや
    ああこのこころをばなににたとへん。

    こころは二人の旅びと
    されど道づれのたえて物言ふことなければ
    わがこころはいつもかくさびしきなり。

  • 相手に依存することと相手を目的とすることの違い

    最近ニュースを見ていると、他人を食い物にするような事件が少なくないと感じます。その度、相手に依存することと、相手を目的とすることの違いをよく意識します。

    私は「依存」に対して下記のようなイメージを持っています。

    左が依存している側、右が依存されている側です。

    依存している側は、相手の良い部分、あるいは「自分にとって都合の良い部分」にしか目を向けていません。相手がどれだけ悪い部分を持っていたとしても、自分にとっての美点だけを見ようとしている状態です。

    これは、依存されている側にとってみると、自己の一部を承認されている状態と言えます。そしてその一部は、自分にとっての美点と一致しているとは限りません(褒められて嬉しい部分ではない可能性もあります)。言い換えると、依存される側から考えると、依存する側は「自分の全体を承認してくれる存在ではない」ので、彼らを大事な存在だと見なすことは多くないでしょう。それはとても道義的ではない捉え方ですが、一方で非常に自然なことだとも感じます。

    相手を依存させられる点が自身にあると気づくと(更にその依存によって自分に利益が発生すると分かると)その部分をより良く見せたり、それ以外の部分を隠すことで、依存の関係を維持しようとすることが考えられます。それが行き過ぎると、相手を食い物にするような行為に至ってしまうのではないかと思います。

    依存の関係そのものが悪いとは言い切れません。ただ、非対称な関係性を悪用することには確実に問題があると思います。

    では、相手を目的とする関係はどのようなものか。私のイメージは下記のようなものです。

    この図は自分と異なる特性を持った相手の全体を承認し合う関係を示しています。ポイントは「全体を承認し合う」ということです。なぜなら、承認し合っているとしても、それが一部なのであれば、いずれ環境や個々人の特性が変化したときに、関係の根拠となる部分がそれぞれにとって重要なものではなくなる可能性があるからです。そうなってしまえば、いずれ良いところだけを見続ける関係ではいられなくなるでしょう。

    そしてこのような関係を結ぶことができる人には、依存の関係が必要なくなります。「ある人には対称な関係であり、またある人には非対称な関係である」というのは、自己同一性が乖離しているようなもので、かなり違和感のある状態です。当たり前に相手を認め尊重するということが、いかに自然で、いかにストレスがないかを実感すると、依存する/されるという関係が自分に無用なものであると理解できるようになり、一人ひとりへの接し方が変わってくると思います。人間にはそのような気付きと転換が発生する出会いが必要だと私は思います。

    地位や容姿、貧富、老若という違いがあったとしても、そしてそこに優劣があったとしても、個々人は一人の人間であり、それ以上でもそれ以下でもありません。自分が自分のことを大事に思うのと同等に相手も大事にできるようになるという当たり前のことが当たり前になるように、自分の行動の中で示していかねばならないと感じます。

  • このブログについて

    なにか書きたいという気持ちと、仕事でGoogle Analyticsをよく扱うので、その実験用に公開領域がほしいという気持ちではじめました。

    私はミシェル・フーコーのことをまじめに勉強したことはありませんが、彼は、自分の思索を道具箱のようなものとしてとらえ、他者がそれらを活用してくれるといいと考えていたそうです。自分もそのような形で何かしら人の役に立つものを提供したいです。