最近ニュースを見ていると、他人を食い物にするような事件が少なくないと感じます。その度、相手に依存することと、相手を目的とすることの違いをよく意識します。
私は「依存」に対して下記のようなイメージを持っています。

左が依存している側、右が依存されている側です。
依存している側は、相手の良い部分、あるいは「自分にとって都合の良い部分」にしか目を向けていません。相手がどれだけ悪い部分を持っていたとしても、自分にとっての美点だけを見ようとしている状態です。
これは、依存されている側にとってみると、自己の一部を承認されている状態と言えます。そしてその一部は、自分にとっての美点と一致しているとは限りません(褒められて嬉しい部分ではない可能性もあります)。言い換えると、依存される側から考えると、依存する側は「自分の全体を承認してくれる存在ではない」ので、彼らを大事な存在だと見なすことは多くないでしょう。それはとても道義的ではない捉え方ですが、一方で非常に自然なことだとも感じます。
相手を依存させられる点が自身にあると気づくと(更にその依存によって自分に利益が発生すると分かると)その部分をより良く見せたり、それ以外の部分を隠すことで、依存の関係を維持しようとすることが考えられます。それが行き過ぎると、相手を食い物にするような行為に至ってしまうのではないかと思います。
依存の関係そのものが悪いとは言い切れません。ただ、非対称な関係性を悪用することには確実に問題があると思います。
では、相手を目的とする関係はどのようなものか。私のイメージは下記のようなものです。

この図は自分と異なる特性を持った相手の全体を承認し合う関係を示しています。ポイントは「全体を承認し合う」ということです。なぜなら、承認し合っているとしても、それが一部なのであれば、いずれ環境や個々人の特性が変化したときに、関係の根拠となる部分がそれぞれにとって重要なものではなくなる可能性があるからです。そうなってしまえば、いずれ良いところだけを見続ける関係ではいられなくなるでしょう。
そしてこのような関係を結ぶことができる人には、依存の関係が必要なくなります。「ある人には対称な関係であり、またある人には非対称な関係である」というのは、自己同一性が乖離しているようなもので、かなり違和感のある状態です。当たり前に相手を認め尊重するということが、いかに自然で、いかにストレスがないかを実感すると、依存する/されるという関係が自分に無用なものであると理解できるようになり、一人ひとりへの接し方が変わってくると思います。人間にはそのような気付きと転換が発生する出会いが必要だと私は思います。
地位や容姿、貧富、老若という違いがあったとしても、そしてそこに優劣があったとしても、個々人は一人の人間であり、それ以上でもそれ以下でもありません。自分が自分のことを大事に思うのと同等に相手も大事にできるようになるという当たり前のことが当たり前になるように、自分の行動の中で示していかねばならないと感じます。